旅のチカラ≪キプロスの旅2≫

3日前、行きつけの割烹居酒屋の
           カウンターに座ると

自分から4席ほど離れたところで、
           3人の先客が話に花を咲かせていた。

客は自分をあわせてこの4人だったから、否応なくその話が聞こえてくる。


先客の3人のうち2人は若くて、

その真ん中には、
  年の頃70はゆうに超えた、たぶん地元実業家だろう、

穏やかで知性的な人物が、
   若い者を勇気づけるような口調で、
      人生を噛みしめるように語りかけている。

             そのうちにこんな会話が飛び交いはじめた。

・・・しかしなあ?、

日本にはいろんな神様がたくさんいてなあ、
           それが楽しくも面白いんだよ、

仏教ってのは、
  実に穏やかでやさしい宗教で、
        奥が深くて多様なものなんだ、

そこへゆくとキリスト教とか、
  ああいった一神教ってのは侵略を繰り返してきた宗教だから、

◯◯という本にも書いてあったが、
    ありゃなあ、まったく恐ろしい宗教だよ。
            我々は日本人に生まれて良かったなあ?

                  ハ・ハ・ハア?と高笑いしている。

こっちはカウンターに肘をついてうつむき加減。

なんだか無性に腹が立ってきて、
      黙って慌ただしく一本、
         ムリに酒を流し込んでお勘定。

今日はどうしたんだという店主に、愛想笑いをしながら店を出た。

カ?っと頭に血が登って、へんな迷惑をかけないうちに席をたったのだ。

2年前のフランス、田舎の教会ロストレネン、
   あのブルターニュのミサの語りかけるような優しい空気
         石の天井から降り注いで包まれるパイプオルガンの音色

ミサの終わりを告げる鐘の音の中で、
          一方の手を支えられ、
              一方の手の杖を頼りに

                  教会の階段を降りている老女の姿。

そして今回のキプロスの旅では、

ラルナカのセントラザロスという教会のミサに参列した。

ミサは一斉に集まり一斉に終わるというふうではなく、

自由に、自然に膨らんで、
      胸に十字を切りながらロウソクの火を灯し、

少しヤンキーっぽい男も女も、学生たちも老人も
        抱きかかえられた小さな子供も皆、
            参列者は象徴であるイコン画にキスをする。

参列者と司祭の間の真ん中にいる事を特別に許されて、
      膝の力が抜け落ちるような雰囲気のなか、

            ギリシャ正教の敬虔な人々を肌で感じた自分。

たぶん教会の真ん中で
棒のように立っている自分が邪魔になったのか、
その緊張をほどこうとしてくれていたのか解らないが、

自分の両肩にふんわりふわあっと、数回・・・
                 背後から手が掛かる

この場を取り仕切っている人物が、
      ひとりひとりに微笑みかけては、
               教会全体を見渡している

ブルターニュのミサは、
  やわらかくみんなで分かち合うようだったのに対して、

ニコシアのミサは、
  ひとりひとりが心からの祈りを捧げる、というようだった。

たった2回のミサ体験かもしれないが

そこには強制だったり、
義務的な物がまったく感じられず

それは普通で、ぜんぜん特別なことでもなく
   生活の一部として、ごく当たり前に執り行われているのだ。

いま、日本や自分の地域に
    こうした信仰からにじみ出ている一体感

信仰の形や表現がいくら違ったとしても
                 

あのように自然に敬虔になれるという場面があるだろうか。

尊敬なのか脱帽なのか
なぜか、申し訳ないような気持ちになって、
この気持ちにふさわしい言葉ばかりを探していた

今回のキプロスも、前回のヨーロッパでも、

峠を越えてまた次の街が見えはじめるとき、
       見下ろす街には必ず大きな教会があり、
              それを中心として家々が広がっている。

街全体の風景は、

屋根は石であったり、
  オレンジ色のかわらであったり、
        おおよそ統一されていて、

ひとつひとつの家は、
   いろんな形があったとしても、
       同じような意識で素材が使われている・・・・

変わらぬ信仰心が
   一定の道筋を未来にまで導いているからに違いない。
 
【 自分達を取り巻いてきた歴史 】
           と生活と人々に大きなぶれがないのだ。

教会を中心に1000年以上、
        変わらず続けられている
              彼らの信仰と一緒にある生活。

文明が発達し、異教徒とふれあい

インターネット端末の普及や、
   経済状況によって強い影響を受ける現代の生活の中で
                それでもなお、芯の部分は変わらない

 
なにか、ひとりひとりの顔つきや姿の後ろに
    1000年分のくっきりとした道が見えるような気がして

      それに引き換え、自分があまりにも軽い存在に思えてしまう。

ここで信仰とか宗教とはなんて、
難しすぎる議論など、されたものならサッパリわからない。

たぶんあの、
   カウンターでの宗教観も間違がってはいないのだろう。

ときどき、

日本は今や無宗教ともいえて、
       逆にそれが自由で、なんでもありで、
                 みんなが仲良くできて素晴らしい

             そんな話を聞くことも一度や二度ではない。

・・・・・・・・・・・・・・・

自分達の生活の規範はあまりにも希薄になっている。

いやいや、自分たちの周りにだってと
        誇り高く、胸を張りたくなるような
            事や、物は、どんどんどんどん消えている

        
           そしてそれに歯止めがかからない日本。

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