春の信号

雪解けの3月の声を聞くと
        年々強くなる思いがある。

春を心待ちにしている気持ちが

まだかまだかと、樹林の新緑を
           急かしている俺。

・・・確か去年の新緑は、5月4日頃だったと思う


浅葱色の葉をいっぱいに伸ばして
         太陽光線に憩う柔らかな小楢の樹林。

冬枯れの山肌から、

黄色や薄紫や白花に彩られたあと
     透けるような緑に包まれる
         ドラマチックな季節の到来に、立ちあう度に。

いまの自分には、
この時期が、満開のサクラよりも一番美しく、

一年の軸として、感慨深い時間となっている。

春は、
まず、黄色い福寿草からはじまって
サクラ色のトクワカソウが続いたあと

オサバグサ、アズマイチゲ、ニリンソウ、ヒトリシズカの

                  さみしげに揺れる白い花。

それから

カタクリ、ショウジョバカマ、
         スミレ、イワカガミが競って咲くと

ミツバツツジが
蕾を今にも開きそうに膨らませて
まだ芽吹かぬ樹林が、うす紫色に色づいてくる

そこに、

ツバメオモトや、マイズルソウ、ユキザサの硬い花芽が突き出して
陽射しに乾いた枯葉の上を
雑木林の女神=ギフチョウが
跳ねるように舞う

ミツバツツジが花開くと
カタクリが終わり、
アオイが芽吹いて

そうして、

ミツバツツジの花の終わるころ
アオイの葉裏に、卵を見つけるとギフチョウは消えて

雑木林は若葉に包まれた、新緑の涼しい日影。

こうして春は完成し、季節は夏に移り変わる。

眼には見えないスピードで、

けれど確実に
姿を変えてゆく草花に、息苦しさを感じたり、
              自分が生まれる前からの永遠を感じたりと

春は、不安と安心の入り混じった、命がむき出す季節である

ところが、今年18日になっても
樹林は、まだ若葉を伸ばしきっていない、なんとも遅い春である。

カタクリの蜜に、
ギフチョウが舞うのを待ちながら

それを見ることもなく
ただ、カタクリの花びらが枯れてゆくのを眺めていた
                 不自然な気持ちに苛まれつつ

なぜ来ない?と、心の中で蝶を呼びながら・・・

飛騨では春一番と言われるミツバツツジの
株だったいくつかが、花を咲かせ散ってしまい、

10mと離れていない位置では
       まだ蕾までもいかない、ミツバツツジがあることに気づく。

・・・春が、なにかおかしい?・・・

足元に死んでいるチョウを数羽、見つけると

ギフチョウが、
     必死に逃れて飛んでいるように見えてくる。

5月1日には、霜注意報の予報が出たり

7日には、山並みに突き刺すような稲妻と、
          雨の入り混じった大粒の氷に、

これまで経験したことのない
           妙な身体の震えを感じていた。

この春は、

見守るというより、
畏れを身体が察知しているような日々なのだ。

小さな頃、
よく親から臆病な子だと言われてきた、あの頃の感覚がよみがえって

見えないものにおののくような自分を感じ、

けれど、その直感めいたもの、気配の流れのようなものの
それを、説明することは出来ないけれど

これが、
これまで自分の

一番の判断基準になってきたことは間違いない。

昨日、アオイの葉裏に卵を見つけて
ひとまずは、ホッとしながらも、

樹林はやっと
新緑の緑に包まれて、飛騨の春が終わった。

しかし、その木陰の中に
数株のミツバツツジが、今まだ咲いている不自然。

なにかの流れが、
バランスが崩れている・・・

とうに終わっているはずの
イカリソウの十字の花が不吉にさえ思えてしまう。

ただ経済と、政治の話ばかりに
         振り回されている一方で

この狂っている春に、
     誰も気づいていないのか、
            誰も震えないのか?

それとも俺だけが
単なる臆病風に吹かれているだけなのだろうか?

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