これからの左官としての考え方               2003,4,21,記

土壁を知りたくて、土壁を塗りたくて・・・

そうして解らないなりに積み重ねてきた、
自分流の考え方と,多様な泥の可能性と表情の世界。

最近では、この土を通して、様々な人達が訪れる様になり、
その都度、励まされたり刺激されたり・・・・

たくさんの話を聴き、
いろんな考え方を知り・・・
予期せぬ不思議な出会いが多くなってきている。

そんな中で、確かにこれまでは、
ただ気楽に自由な立場から,夢中で土に接してきたのだが、
最近では、それが進めば進むほどに、

自分にひとつの迷いというか、ある疑問も同時に発生している。

よくこんな声を聴いた・・・・

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朝もや                       1999,1,6,記

ある日の朝、数河峠の上り坂。
ひとり車を走らせていた時だった。
空気は冷え、川は暖かくなってきた初冬のことである。
いつもならめっきり冷え込んでいるのに、今日はなぜかどんよりとした曇り空。

もう9時だというのに、まだ空はどんよりとしたままである。
目の前は依然深い霧が立ち込めていて光を吸収している。
ふと見ると、西の山並みに少し晴れ間が見え始めた。
・・・・・その時・・・・・。
朝もやが東に向かって流れ出した。
何かに吸い込まれるかの様に流れていく。
みるみるうちに、どんどん、どんどん、流れていく・・・。

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紺色の心                    2001,4,20,記

夜道を歩いている
月の雲間。群雲の流れ・・・・。
しんと冷えた静けさにひとり
果てしなく、黒に近づく紺の果てを見つめ
ただ、透けてゆくのを待っている
限りなく遠く澄みきった光と影に・・・。
心の底の、ガラスケースの一筋の
ひび割れの・・・・・・欠片のひかり
私は全てを打ち消して
黙して歩く、草の道

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土の神の子供           1999.2.11 記

・・・・・・びっくりした。 
「 こじつけ 」といわれるかもしれない・・・・・・
                   それは偶然だと言われそうだが、
今の自分にとって、
     驚くべき発見をしたのである。 

 というのは、以前、小林さんがこんな事を言った。
 
『 神武天皇【 天つ神( あまつかみ) 】がいて、猿田彦【 国つ神( くにつかみ) 】は、先導する人、外来者を受け入れる神なのだという。 』    
    
シュウヘイ、お前は飛騨の猿田彦になりなさい
                  ・・・・・酒を飲みながらの話である。

ヘエーっと、
その時は、よく分らなかったが、言葉の響きが印象的であった。

これが日本神話、古事記である。
        さっそく調べてみようと本を探し読み始めた。 

その内容は・・・・・・

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旅立ちの前に         2001.3.10 記

人のやさしさ、暖かさが身にしみている
それがしみじみとして、痛くて苦しくてたまらない
いたたまれなくなって、はじきれてしまいそうで、
小刻みに震える体が止まらない。
どうして、矛盾を受け入れる事など出きるだろう
どうあるべきかを問いつづけると・・・・
自分で自分を責め潰してしまいそうだ
美しい物を汚してゆく恐さ、自分をくずし、きざむ音
穏やかにきらめく流れをいつのまにか見つめている
溶けるようにして、消えるようにして
海を眺め、夜空を見上げている・・・・
・・・・歌・・・・メロデイがなぜか無償に悲しい。

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《 左官職人 迫田幸一 》 2002.7.18 記

《 左官職人 迫田幸一 》=左官請負グループ、
迫田班との決別について書き記しておかなければならない・・・。
そう思いながら、この文章に向かう度に、いつも息詰まってしまう事の連続で、もう3年という時間が過ぎてしまっている。確かに11年という月日は彼に対する、愛信義情恨義憎惨といった、数え切れない思いが心の中で、めまぐるしく絡み合い、到底ひとつの理屈では納めきれず・・・
だから、言葉や文字などで表そうとしても、膨れ上がってしまうばかりで、考え始めると感情は高ぶり、冷静さを失ってしまうような所もあった。その度、結局は、自分の中から必死に消し去り、押さえ込んでしまうだけで疲れてしまう。

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迫田、去年の12月の事だった・・・

去年の12月の事だった。岐阜に戻った迫田幸一の様子がおかしいという・・・。
そんな風の便りに長年に渡り付き合って来たからこそ解る 
奴の性格から、なにか胸騒ぎめいたものを感じ、岐阜に車を走らせた。

相変わらず、改めて迫田の貸住宅の前に立っていつも感じるのは “今時、こんなにもボロボロの長屋が存在しているのか?”とため息が出る様な有様である。
ともあれ、玄関のドアを叩き「俺だ!」と呼ぶが返事はなく鍵がかかっている・・・
留守なのか? と思いながらも一応、居間側に廻り、古びたサッシ戸を開けてみるといきなり迫田のベッドが目の前に現れ、眠っていた迫田が驚きながら上半身を起こして
「おぅ!どうした・・・」っと こっちを向いた。

その時の迫田の風貌たるや、あまりの惨たんたる状態をどう表現してよいやら・・・

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恩師 イスルギ常務   1999.9.13 記

9/7、あの、イスルギの常務〔石動治夫〕氏が、仕事中に金沢の本社で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。(享年62歳)余りにも惜しまれる業界の顔の死である。

話によると次回、カナダに於いて開かれる技能五輪国際大会の選手を養成する為、自らが数人の部下を従え、選手練習課題を制作している最中に、突然と音もなく倒れ・・・
・・・心臓の停止・・・。
あれほどの迫力、パワー、日本人離れした風格、そんな常務の突然の訃報に、ただただ呆然としてしまう以外にはない・・・とにかく何がどうなったのかと・・・想像の仕様もない・・・    そんなありさまだ。

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恩師 上内 丈光     1999.9.10 記

今こうして、自分が左官職として沢山の人と出会い、夢中になれる物があること。
そして、仕事面に於いて運良く勉強できるチャンスにも、恵まれ始めて来ていること。

 熊本は上内工業?  社長〔上内 卓〕 そして専務〔上内 丈光〕の両氏の下、自分が入社したのは昭和56年の春。当時は従業員140?50位、いただろうか?
この頃、まだ建設現場は左官工事が主流を占めていた、全盛期だったように思う。両氏は、我が社は技能の『上内』だと胸を張り、技能者の育成の為に、事業所内に単独の訓練校を持ち、実際、昭和44?60年頃までに、技能五輪全国大会でおよそ20人の入賞者を独自で育て、内、優勝者を7名出しているという、業界では、
九州王国とまで言わせた時代を築いたと言って間違いない。

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