恩師 イスルギ常務   1999.9.13 記

9/7、あの、イスルギの常務〔石動治夫〕氏が、仕事中に金沢の本社で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。(享年62歳)余りにも惜しまれる業界の顔の死である。

話によると次回、カナダに於いて開かれる技能五輪国際大会の選手を養成する為、自らが数人の部下を従え、選手練習課題を制作している最中に、突然と音もなく倒れ・・・
・・・心臓の停止・・・。
あれほどの迫力、パワー、日本人離れした風格、そんな常務の突然の訃報に、ただただ呆然としてしまう以外にはない・・・とにかく何がどうなったのかと・・・想像の仕様もない・・・    そんなありさまだ。


株イスルギ、いわゆる左官業界の顔として、総勢400?500(東の横綱)ともいわれる職人集団のトップの位置にありながらも、自らは、一職人であることを生涯忘れず、それは技能を磨く、技能こそが最大の営業力であり、組織をまとめる絶対的統率力である事を貫いた人物であったと思う。よくあるそこいらの中小企業のトップのような、現場からかけ離れ、本当の事、実践の中の現実、そして、そこに巻き起こる様々な矛盾を直視する事も出来ない軟弱な、形ばかりの人間とは訳が違う。
『イスルギの常務』・・・と聞けば、皆何処かがピリッと来る、そして号令がかかる。
まさに、一時代に生きた『剛』・『豪の人』であっただけに残念で残念でたまらない。

自分がこの常務と初めて知り合ったのは、約五年ぐらい前であったろうか?
丁度、全国技能大会(無差別級)の競技中の事、それは選手と審査員という立場での出会いであった。それから直ぐ、総工費400億とも言われる、崇教真光、古代歴史記念美術館(現:光美術館)という建設現場。左官工事の職長として悪戦苦闘の真っ只中であった自分に対し、常務が訪れ、これだけの建物は俺もやった事が無い・・・、大した物だ・・・歴史に名を残せと・・・約半年間以上もの間、秀平がんばれと自分の部下である7人の腕の利いた職人を半年に亘り、バックアップをしてくれた。素晴らしいのは、この建物に参加する事によって、イスルギとして勉強しているんだとまで言い切って、
凄く可愛がって貰った事を忘れない。
おお秀平・・・と大きな声で呼び捨てにされるのが誇らしいような気さえした。

この頃の俺は、あの古代歴史記念美術館を一手に請け負っていた事や、仕事を覚えたいという一心と、これだけの大きな現場への挑戦から来る、恐怖心が気の強さとなって現れ、その悪評は東海地方にまで広がり、一部の間では、あのナマイキな野郎を止めるのは、常務以外にはいない・・・そんな話まで出ていたという。   ・・・それだけに・・・。
そんな事など気にも止めず、逆に今の業界にはお前のような若い人間が必要なんだと、当時32?3の自分に対して対等に、或いはおおらかに、そして職人同士として接してくれていた事に、自分は心から感謝をし、その人物の大きさを感じずにはいられなかった。
・・・・まだまだ・・・・まだまだ・・・・
お前はもう一度全国大会に出場しろ、必ず優勝して2冠を取れ、その時は私の所へ来い・・・・平成13年に完成する金沢城の復元工事には、お前にも手伝って貰いたい・・・頼むぞ。

9/9、倒れた事を知り、9/9、10:27・・・
そのまま亡くなってしまったという連絡が入った。翌朝一番に出発しよう床に就いたが眠れなかった。12:30高山を出発・・・ダム沿いに走るトンネルのオレンジ色の光が悲しさを一層、募らせた。・・・2:30、富山の自宅へ辿り着いた。7:00になるまで待って枕花を添え、改めて別れを知り、その姿を目に焼き付けた。・・・横たわって居るその姿を見た時、これが現実と分かっているんだが、納得出来ず涙も出ない。

イスルギの金沢本店、富山、福井、大阪、東京支店の幹部が皆、続々と集まってくる。
幹部達は代わる代わるに、“あなたが秀平さんですか・・・”
お噂はかねがね聞いておりましたと最敬礼・・・。と同時に、余りに突然の訃報に皆、今この時を・・・
そして今後を、どうして良いのかと途方に暮れている。 
まるで、武田信玄 影武者、そんなイメージが頭をよぎる。
本葬が終わり、出棺の一瞬時、自分の内側が張り裂け、
噴出すかの様に涙があふれ出し・・・止めようもなかった。

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