感情の壁                        2009.08.18 記

昨日の昼頃だったか!
用事を済ませて、車の運転を始めて数分・・・・・・

ラジオから流れている会話―。

最初はその語り口調から、次期総選挙の演説だな?。と、
瞬時に頭の中で判断していた。
ところが、聴いているうちに、そうではない事がわかってくる。

・・・・・そのラジオ番組は、
どうやら、住宅相談のような内容で、少し注視して聴いていると、
回答者が、いかにも爽やかな、歯切れのいい口調で話している。

『そうですね、まず何よりも、安全快適に暮らす事が大切です。
きちんとしたシステムの中で選択してゆけば、
        必ず予算に応じた素晴らしい家が手に入ることでしょう。
・・・・そのためには、
どんな部材もすべて、規格通りの製品を選び、
ひとつひとつに、きちんとした構造計算がされていることが不可欠です。』


と言うと、パーソナリティーが、
              すぐさまあいづちを打つように、

『そうですね。そういう安全性のある部材を、
きっちりと、心を込めた職人さん達の手によって
      快適な家がつくられていくのは理想ですね。』

と言って、番組はあっけなく終了してしまった。

ここで、その全てを否定するつもりは、
          もうとうないことを前提に・・・・・。

もしもこの先、
このラジオ番組の言う施工責任の所在や、
耐久性の保障を最優先させる事が建築として、
         安全性や快適性のある家づくりである。

・・・・という考え方が、広がってゆくとしたなら、
これらを重視する人たちの大半以上の中では、我々の仕事は必ず、
完成後に発生するクレーム職種の一番手となることが予測できる。

例えば、
無垢な材木は、一応数値で表す事が出来るかもしれないけれど、
もともと、木も土も自然そのままで生かして、
         技能を身に付けてきた職人達の家づくりは、

匠の国。
と言われた飛騨でも、ほぼ見られなくなってしまった現実。

まだまだやれる!
そんな年老いた大工棟梁も、いまや法に縛られ身動きがとれず、
自分達と長い付き合いをしてきた個人大工も
次々と廃業に追い込まれ、
        ・・・・・長年の刃物が泣いている。

それは、白人の法に従わざるをえなくなった
       アメリカインデイアンが草原をかいこんする時、

母なる大地の。
その自分の母親の髪の毛を、
どうして刈り取ることなどできるだろうか?
         ・・・・と、嘆く、叫びのようだ。

師から弟子へ、自分達の経験と知恵を注ぎ込み、
新しい表情を生み出す施工法や、流儀を見出したとしても、
それを数値に置き換えることとは ますます遠ざかり、
自分達では計りきれない、
    微妙なねじれや、ゆがみや、
       天然しぜんであるがゆえの伸縮は、
              必ずどこかには生じている。

…しかし、それを認めない絶対的人間中心の時代の到来は、
自然に生まれる微妙な色ムラがおきた場合も、
              工業的なペンキ色と比較され、

昨日と今日の土壁の微妙に違う肌合いも・・・・、
施主によっては、印刷されたクロスや型で作られたものと
                 見くらべてしまわれて、

職人(作り手)と建築(依頼主)の間にあった
自然(受け入れる部分の幅)は、
不完全な物とみなされてしまう時代に、ますます進むのだろう。


もっと言うなら、
水が抜け、やわらかに仕上がった土壁に、物があたり傷がつくと、

「強く物を当てた訳ではないのに、
表面がこすれてしまったんですけど、
なぜですか?取り替えることはできますか?」という。

…もちろん、それは現場でつくりあげた物だから…                   取り替えることなど出来るはずもなくて
塗り壁は、ラジオ番組のような
工場で作った部材を取り寄せ、
      組み立て出来ているのではない
           ことから説明しなくてはならない。

測りきれない、
自然の変化を受け入れて従い、塗りあげられるやわらかな壁。

水と土と光を合わせた、時間のかかるもの作りは、
早く、固く、合理的で、全てに理論的な説明があり、
保障されていることを求める現代社会で、
           存在してゆくことは難しそうだ。

人間の命は地球よりも重い・・・・?

では、その命とは、健康とか権利のこと?

それとも、喜怒哀楽に満ちた心のこと?

その命を身体の健康とみるか、
          感情の豊かさとみるか・・・・?

時折、地表に顔を出している、真っ赤な赤土をみて、
     「なぜ土がこんなに赤いんですか」と聞かれる。

・・・・なぜ!?・・・・  
そんな時いつも少し、いらだってこう答える。

俺は、どうして赤いかなんて、考えたこともなければ、
             調べようとも思ってはいない。

いま目の前にある土の赤さが、
不思議な気配を漂わせてくれていて、
        美しくて、なんだか嬉しい・・・・・

             ・・・それでいい・・・。

この土に出会えた偶然に感動して、
  その神々しさを、そのままに受け入れているだけ・・・。

今、自分が作っている【歓待の西洋室】(左官西遊記として記載中)
は、構造計算も数値も、強度計算なんてひとつも存在しない。
もちろん、自分の考えられる、職人的な経験を生かした最大限の補強を施しているが、それを数値で表し、その証明をする意味も感じない。

森羅万象の移ろいに感動し、時に悩まされ、柔らかな仕上げで包まれた、美しい空間の夢を見て ここにしかない時を感じていられるのなら、必要以上の安全性を論じるどころか、あえて危険性をも受け入れたい・・・。

陽の光をあつめて燃やせば、
         たぶん金が生みだせ

  月の光をあつめて凍らせれば銀ができ、
        
      枯葉をたたいて腐食させると銅になる。

そして、けむりと雨をまぜて鉄を生み出し、
    
   強く吹く風を
       鋭い太刀で切ったなら、水がこぼれる。

         

            ・・・これらが全て土に降る。

暗闇の樹林のなかに立てば、そこは体内への入り口となり。

ひとけのない月夜に流れる白雲を、
       きれぎれの黒雲が追いかけ、覆いつくして

漆黒となるまでひとり、見届けたとき
       たぶん、自分の運命が ひとつ かわる。

樹皮は鼓動

全ては 根へ 泥へ・・・・・・。
……その家の その人の為の 一枚の壁を 新鮮に
     より感情的な左官の世界に 進んでゆきゆく…。

そうして俺達も
 やがてこの社会から 消えてゆきゆくのだろうか?

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